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『日本刀の鑑定と鑑賞』の紹介

(下記資料の購入先案内 常石英明著 金園社発行 東京都大東区東上野3-9-6  tel 03‐3833‐4021 )


第一部
日本刀の歴史

 直刀時代(神代と上古代)

 日本刀はその名前が示すとおり、我が国独特の鍛刀法で製作した日本の刀剣類を指します。国内で一般に日本刀と呼ぶようになったのは明治以降のことで、それまでは太刀、あるいは刀とよばれていました。特に平安朝以前直刀には剣、劔、太刀、横刀などの文字が使用されています。

 わが大和民族は天目一箇命を刀匠の祖神と仰いで、以来三万有余人の名のある刀匠の輩出を見て今日におよんでいます。大和民族は神代から鉄剣時代であって石剣時代や鋼剣時代といわれる時代はありませんでした。 大和民族が日本本土に上陸した際には、すでに当時の新兵器である鉄剣を使用していたのに対し、土着民達はいまだに石剣時代でした。この武器の相違が日本平定の大業を非常に容易ならしめた原因の一つです。

 神代の名剣として古事記や日本書紀に記載されている天之尾羽張は伊奘諾命が佩き、味スタ高彦子根命が武勇を振われた神戸剣、更に神武天皇が大和の賊を平定したフツ霊剣等が有名です。とくに天草雲剣は天目一箇命が天照皇大神のおんために天の香山の鉄で鍛えた剣であると伝承され、また人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊が東征の際、草を薙ぎ攘い風向きを変えて危難をまぬがれてから草薙の剣と呼ばれ、三種の神器の一つとして我が国最高の神剣とされています。

   その後、人皇の御代にはいると綏靖天皇記に輪鍛冶部の刀匠、天津真浦に、また崇神天皇には天日一箇命の後裔に剣を造らせたと記してあります。これらはいずれも大和民族特有の刀剣です。また祟神天皇は大和鍛冶部命じて造らせた剣十柄、弓二張などを常陸国の鹿島神宮に献納されました。これはわが国で刀剣類を神社仏閣に奉納した最初のものです。

 垂仁天皇の三十九年天皇は、太刀佩部(当時の軍閥であった物部、大久米部の内から精鋭の一部隊)を創設し、皇子五十瓊敷命を将軍に仕じ、さらに大和鍛冶部に属する川上伴に、一千振にも及ぶ大量の剣を造らせて、非常事態に備え、宮中の警備に当たらせました。これが後世に授刀舎人(宮中護衛職)となりました。これらは伝統の大和鍛冶部を重んたものであり、まだ外国から鍛冶の移住がほとんどなかったことを意味しています。

 継体天皇の二十一年、筑紫国の国造であった磐井一族が反乱を起した時、天皇は物部アラ鹿火に追討の勅命をくだされ、その出陣の際、剣を授けられました。これが節刀(将軍が出征の際天皇より賜る刀剣)のはじまりです。日露戦争の時東郷元帥が海軍司令長官として出征の際、明治天皇より賜った一文字吉房の太刀(有名な三笠艦上での佩刀で現在は重要文化財)はこの例に倣ったものです。

   一方わが国と韓国方面との交通は神代からひらけていて、索箋鳴命が大柁を退治した「蛇韓鋤之剣」はその名が示すとおり、韓国の作と考えられるものも交じっています。また神功皇后の時代に百済からわが皇室に日月護身剣、七枝剣、丙毛槐林剣等が献上されています。この前後の時代には『高麗剣』と呼ばれる名剣が数多く名を残していますが、これは外国から刀剣が盛んに輪入されたいわゆる刀剣舶来の時代を意味しています。

 また新井白石は伊勢神宮の有名な玉纏横刀、須賀流の太刀なども外国の剣だと説いていますが、これらのことは舶来の剣が我国古来の剣より優秀であったことを意味しています。なおその証拠の一例として推古天皇が蘇我氏の武勇を賞賛された御製に『ますけよ蘇我の子等は、馬ならば日向の駒、太刀ならば句礼の真鋤』とあります。当時、馬は日向国(宮崎県)に産するものを最上としかしこれは刀剣に限らず、他の美術工芸品についても同様に舶来品が国産品より優秀なことがいえます。

 しだいに日本の国力が充実するにつれて刀剣の需要は増大し、輸入だけでは間に合わずそこで優秀な刀匠自身の渡来を招くにいたりました。古いところでは応神天皇の御代に百済の昭古王の推挙によって卓素という名匠達が渡来しています。また推古十年来目皇子が兵二万五千を率い、筑紫国を基地として朝鮮(新羅国)に進駐された際、忽海漢人たちを大和国より呼び寄せ、多数の兵器を造らしめて船出しています。これらの鍛冶は勿論日本人でなく、また剣なども漢国(中国)の鍛錬法によったもので、日本固有の鍛刀法ではありません。このことは彼等の技術が大和鍛冶部より優秀であったことを意味し、更に当時すでに外国から鍛冶が渡来していたことを証明しています。彼等のグループを韓鍛冶と呼び、神代の昔から引き続き皇室に直属していす倭鍛冶と相対して繁栄していきました.

 一方、政治的方面での大和民族の発展は景行、応神、推古天皇をへて熊襲、蝦夷などの征服も表落し、皇威四海に輝き中央集権が確立するにつれて、各地の豪族のもとにいた鍛冶は、ちょうど戦国時代の英堆が中央に上り、天下に号令しようとこころざしたのと同じ心境で大和、山城の皇城の地に鍛冶集中の傾向を示したのです。すなわち、東国蝦夷の御用鍛冶である舞草、月山、宝寿等の一派が、北陸沿岸に沿い、各地にその技法を伝えながら山城、大和国に進出し、また中国、韓国の影響を強く受けた九州鍛冶も、山陽道を経て途中に周防、備後、備中、備前鍛冶の遠源を作りながら上京し、さらに大国主命以来、豊かな原料と需要にめぐまれて安住していた伯耆鍛冶の移動、それに宮府直属の大和鍛冶が入り乱れて互いに覇を握らんものと短を捨て長を学び、技を競い合い、世界無比の日本刀鍛錬法の完成へと発達していきました。

 そして国の制度上では、大化改新の際には兵部省が設けられて兵隊や兵器を支配しました。また文武天皇の大宝元年には有名な大宝の改革が行われ、鍛冶戸を各所に置き、兵器の増産を奨励しました。すなわち、従来世襲の国造の部に属していた鍛冶の制度を廃して民業とし、毎年一定の数を定めて良剣を買い上げ、各刀匠の技能をいっそう発揮するように努めたのです。ちょうどこの時、大和国宇多郡に天国が出現し、大宝律令にしたがって自分の銘を製作刀の忠(柄の中に入る部分)に刻み、今日のいわゆる日本刀と称する反りのある鎬造の太刀様式を最初に造りましたので、彼は在銘に本当の元祖と仰がれています。

 いいかえれば、大宝以前の刀剣は、全く反りのない平造、または切刃造の直刀で銘は無いのです。すなわち、天国は新形態の太刀様式の基礎を造った最初の刀匠です。 また平家重代の名剣小烏丸は、天国の作とされています。この太刀は、平将門が乱を起した時追討の功によって、朱雀天皇より平貞盛が賜わり、子々孫々相伝えてきましたが、その後旧津島藩主宗家に移り、更に明治十五年同家より皇室に献上し、現在御物となっています。  むかしは天国と銘があったと伝えられていますが、一二六〇年あまり経過した今日では、銘は錆てか全く不明です。この太刀は長さ88センチ弱で、手元から2/3程度が縞造の冠り落しでそれから上は両刃の剣の形をしていて、全体に弱い反りがあり、一般の直刀とは趣を異にしています。天国の弟子の天座、天藤等はよく師の遺業を継いで有名です。また奈良の正倉院には当時の数々の宅剣が保存されています。

 平安朝時代(大同~寿永=西暦八〇六~一一八三年)

 鎌倉時代(元暦~元弘=西暦二八四~一三三三年)

 吉野朝時代(建武~明徳=西暦一三三四~一三九三年)

 室町時代(応永~文禄=西暦一三九四~一五九五年)

 一、前 期(東山時代)
 この時代は、後亀山天皇の京都還睾により南北両朝の争いも終わりをつげ、足利義満をはじめとしてその一族が金閣寺、銀閣寺等の庭園泉右の美を想いままにするにつれ、前代の実用的な作風は全く失われ、再び平和な時代の優しい王朝時代の姿に近づいていさました。しかし技術の低下ははっきりしており、品位においても時代の下るにつれ、ますます低下しました。

 特に注意したいことは、この時代以前の作刀を太刀とよび、刃を下にして紐で吊り下げて腰に佩いたものですが、この時代からは刀とよび、武士は刃の方を上にして大小二本の刀を腰に差すようになりました。このため50センチ前後の本造り脇差がはじめて製作され、後世の脇差の濫觴となったのです。

 このことは刀剣鑑定上ひじょうに重要な見所で、たとえば、脇差に三条宗近とか相州五郎正宗の銘があれば、それは脇差を見なくとも偽者と断定できます。なぜならば、宗近や正宗は室町時代以前の作者であり、まだ脇差の無かった太刀時代の刀匠だからです。つまり寸法だけで真偽が判断できるのです。

 二、後期(戦国時代)
応仁の乱によって戦国の火蓋が切られ、群雄は各地に割拠し、刀剣の需要は急激に増加して、古刀期最後の全盛を見るに至りました。しかしこのばう大な需要を満すために、いわゆる数打物と称する粗製濫造品が出現しました。たとえば備前国祐定一門の数打物などは、毎日馬で昼夜の別なく全国に向け発送されたといわれています。われわれが平常見る古刀の十中八、九はこの時代の作品です。