双手刀法苗刀とは

苗刀の由来

 苗刀の苗とは苗裔の苗、すなわち遠い血縁の子孫という意味であり、この場合は日本国より伝来の愛州移香斎創始の隠流目録に沿った劉雲峰、呉殳、程宗猷などによる日本国隠(影)流双手刀法のことである。
茅元儀によると、1561年、倭寇との戦いの中「辛西陣上」にて明の将軍戚継光が「隠流之目録」を得たとされている。※

裏付けとして、現在日本国秋田県在住の愛州移香斎子孫、改姓「平沢家家伝記」(愛州二代元香斎宗通著作)に愛州移香斎家伝に曰く、村上源氏北畠氏の苗裔にて世々伊勢の国住とあり、武備志(茅元儀著作)が納められ、猿による刀法(野上小達継承 保存管理)が図示されていると紹介されており事実は明らかである。 (注:新人物往来者 歴史読本平成5年11月号、1995年3月27日号記事引用)
追伸
残念ながら平沢家では現在、隠(影)流刀法は失伝しているとのことである。隠(影)流とは、日本国剣道界では既に失伝された日本剣道最高剣術技法である。

15世紀後半には刀槍を中心とした流派の先駆として、下総国香取の飯篠長威斎が創始した天真正伝神道流、伊勢国飯南郡射和出身の愛州移香斎の陰流、鎌倉地福寺の僧慈音の念流を学んだといわれる中条兵庫助の中条流の三つが上げられる。 (剣道 社会体育教本「改訂版」財団法人 全日本剣道連盟より)
「剣道の起源」に関しては当ホームページ、「中・日・朝刀剣術交流考」をお読みください。

※秘伝 馬家武芸最高門  馬鳳図公一子相伝 馬明達継承 苗刀教伝の要訣
(注意:短兵競技とは関係ありませんので、誤解の無いようご注意願います)
馬明達老師より野上小達への苗刀教伝によれば、明代、戚継光将軍は倭冦を捕えた際に彼等を丁重に扱ったことから、捕虜の倭冦が戚継光将軍へ日本刀を献上し、日本刀法を伝授したとしている……なお、現在伝わる苗刀は、程呉両家の刀譜より出ているとのことである。

日本隠流辛酉刀法双手刀法継承人

避実就虚の謝伝双手刀法苗刀継承人
 謝徳恒より任相栄・劉玉春へ継承される。
 ― 任相栄伝として馬英図・冬忠義に継承される。
 ― 劉玉春伝として郭長生に継承される。
避虚就実の黄林彪伝双手刀法苗刀継承人
 黄林彪より馬鳳図へ継承される。

 馬鳳図公により再び謝伝双手刀法苗刀(程宗猷伝双手刀法)と黄林彪伝双手刀法苗刀(呉殳伝双手刀法)が習得合一され、 本来の日本隠流辛酉刀法双手刀法が歴代中日武術交流によるものとして成立されている。また、白兵戦術会の実績を踏まえ、 張之江(国立中央国術館館長)の命令にて国立中央国術館において双手刀法を苗刀として科長 馬英図教授および助手 郭長生により 普及されたことをここに明記する。

 なお、歴代日中両国刀剣術交流の核心である「辛酉刀法」(この刀譜は二部より成り、前半は日本文字で書かれた陰流の目録およびその学習法、後半は明代に対倭寇戦の実戦的教本 「紀効新書」を著した戚継光将軍による練兵法である)の継承は、中国伝統武術界において、黄林彪、馬鳳図、馬明達 (長男 馬欧)のみである。また、歴代日中剣道連盟代表 野上小達も指導・伝授されたことをここに記する。

中日刀剣術交流史(概論)~馬明達論文より~

 中日両国の文化交流の歴史は、非常に豊かでバイタリティーに富んだ内容を持っている。両国人民の美談としてしばしば引用される数々の史書の中に、我々は両国が古代、武術の交流においても多くの輝かしい記録を残していることに注目したい。
 刀剣術を主とする、いわゆる「短兵」と呼ばれる一連の体系は、古来一貫して中国武術の主要な構成要素とされているが、中日武術交流史でも、刀剣術の交流がずば抜けて大きな位置を占めている。

 日本では現在でも刀剣による試合を「剣術」と総称するが、これは明らかに古代中国語の借用である。日本人は伝統的に佩刀のことを「剣」、刀剣の実践技術を「剣道」といい、また刀のことを「太刀」「大刀」といっている。これらの言葉はみな中国に源を発しており、中国古代の刀剣武芸の日本に与えた影響の深さをかいま見ることができる。

 『漢書』芸文誌に『剣道』なる剣術の専門書三十八篇の名が収録されている。この本は我が国漢代以前の多くの『剣論』の集大成であり、巻数の多さから古代剣術理論の発展の度合いを裏付けており、「剣道」という言葉が中国固有の語である証明でもある。この書は隋唐以前にはすでに失われ、「剣道」という言葉も後世用いられなくなった。日本の武術界では今もってこの語が使用され、更に日本の剣道の古式豊かな特色と考え併せると、『剣道』の書を含め、我が国の漢代以前の剣術論著が確実に日本に伝わっていたと確信する。

 「三国志魏志・文帝紀」薮注は曹丕『典論』自叙にある、曹丕自身の剣術学習始末記を引いている。この一節の描写は非常に生々と我々の古代剣術の研究に貴重な資料を提供してくれる。武術史家の故唐豪氏は、曹丕が鄧展に剣術を語るくだりに出てくる「その臂を中つ」とは、日本剣道の『右籠手』を突く」こと、「面を中つ」および「その額を載る」とは各々日本の剣道でいう「面を撃つ」ことで、又「突いて中を取る」とは「喉刺し」のことであることを述べている。日本剣道では、刺すことを「突く」と称すのはこれに由来する。このような比較を行った結果、唐豪氏は、刺しの部位と名称が符合することから、日本剣道と中国古代剣術には相い通ずる深い関係があると考えた。

 現代の武術の短兵器は片方の手で武器の柄を握るのが基本で習得者の技のレベルは、主として「套路」の完成により評定され、対抗試合は中国では廃れること久しい。これに村し日本の兵器は双手で柄を握るものが主で、レベルの高低は主に競技規則のある対抗試合で判定される。こう比較してみると、日本の短兵器の方がより実戦的特色を保有し、質朴で充実した手をもち、勇敢で頑強な意志の鍛練に有利である。双手で柄を握る刀法は日本では古くから伝わっており、古代日本人民の短兵器領域における独自の風格をもった創造というべきだ。しかしその根源を探ると、日本の早期の双手剣法も中国渡来であることを発見できよう。日本の剣道の体系は中国古代の双手握法の基礎の上に、日本武士が長期にわたり改良を加え、次第に形成された。

 中国の刀剣製作術が日本へ伝わったと同様中国の刀剣法もまた日本へ伝わり、長期間の実抹と試行錯誤を経て日本人民は中国剣法の「短かく持って長く入れ、倏忽(すばやく)縦横」な伝統的特長を発揮させ、後世の中国剣法の欠点である徒らに虚架を支え、以て人の前で美観を図る」ことを棄て、勁力が素朴で力強く、勢法の緻密な日本式刀法を創り出した。特に強調すへきは、日本の武士は充分に地勢、空間を利用することにより人間の戦おうとする気持を自然に発揮させ、極めて迅速で機敏に変換できる歩法を作り出し、軽く速く急で精悍な劈と殺を、軽妙な進退と融合させた。対戦中、「甚しきは旋転、跳躍し、短を用いて長を刺す」ため、甲胃さえ着用せず「裸形で闘いに赴いた」その上、兵器の性能が良いため、技術と武器が相いまって一層効果を発揮した。唐宋以後の中国の一般の刀剣法と比較すると、日本のそれは確かに出藍の誉れである。

 明代の著作から、明代中葉に日本の不法浪人達が中国の沿海を大規模に荒し回り、この倭寇の最大の戦闘手段となったのが日本刀で、中国軍民の大きな脅威とされたことが判る。このため日本刀は明朝の武将や武芸家たちの朗心を集めた。戚継光は彼の名著『紀効新書』で「長刀、倭の中国を犯すよりこれ始めてあり。彼らこれを持ちて跳躍光閃(雷電のことく身を翻す)して前に進めば、我が兵は己に気を奪われるのみ。倭は躍を善くし、一たび足を逆えば別ち丈余、刀長は五尺にて、則ち(一)丈五尺なり。我が短兵器は接し難く長器は捷ならず、身多く両断す」と述べる。日本刀法のこれらの長所を、一部の優秀な明の将軍や武芸家は真剣に研究し、投をとり入れようとした。この間、戚継光はその先頭に立ち困難な道を切り開いた。 

 戚継光は研究熱心で頭がきれ、オ智と方略にたけた傑出した人物である。倭寇が各々長刀の優位さを発揮する戦法をとったのに対抗し、彼は民間武芸から大量の技を汲みあげ、「長短兵器どちらでも使える」「鴛鴦陣」の法を縮み出し、集団の「勇を斉め」て個々の倭寇にあたろうとしたこの長刀の威力を打破せんとする方法が有効であったことは実技によって証明された。嘉靖三十九年(一五六〇年)、彼が『紀改新書』を著したとき、長短兵の各家の武芸を吸収し、あまつさえ、「大戦には無関係の技」である拳法までとり入れたが、短兵器の武芸だけではとり入れなかった。彼は「刀法は甚しく多きもその妙を伝えるもの絶えて寡し、尚を衷傑のこれを続ぐを侯つ」と言っている。これより、日本刀法の優れた技に鑑み、披は当時中国民間の刀法選択にあたっては慎重な態度をとったことが判る。厳しい選択規準を設けた態度は賞賛に値する。二年目、つまり嘉靖四十年(辛酉)、彼は紡江で倭寇と戦ったとき日本長刀の「学習法」を身につけ「またこれにより演じ」て『辛酉刀法』一譜を著した。この刀譜は二部より成り、前半は日本文字で書かれた『隠流の目録』およびその「学習法」で、後半が戚氏の練兵法である。『辛酉刀法』は図のみで解説がないので概略を伺うのが大変難しいが、これは中日両国の刀法と合わせて一譜になり、中日刀剣武芸交流史に於いて、なお貴重な文献であることに変わりない。

 戚継光のあとを縫いで民間の武術家である程宗猷が日本刀法を専門に研究し、天啓元年(一六二一年)に『単刀法選』を著し、日本刀法の導入に卓越した貫献をした。

 程宗猷は『単刀法選』で「器名の単刀は双手で一刀を執るなり。その技の擅するや倭奴に自る。・・・余故にその法を訪ねるに浙師劉雲峰たる者あり、倭の真伝を得、吝せず余に授け、頗る壺奥を尽くす」。程宗猷は「凡そ名師たるもの速く訪ぬるを憚らない」愛国の武術家であった。劉雲峰の伝授を受けた後、彼はまた自から当時の刀法で南北に名の抑えた豪州の武芸家、郭五を訪ね、比較検討した結果、劉霊峰の伝える刀法が「郭に勝る」ことを発見し、より一層日本刀法の実用価値を験証した。しかし言葉の璧のため劉雲峰が日本人から得た刀法は「勢に依り像を取り、其の名を倣」て、現在に至るまで絵をみれば型を演ずることのできる『単刀法選』を著した。この著は日本刀法の中国に於る流布のため敬慕すべき記念碑である。

 清の初年になり、反清思想をもつ学者の呉殳が天下の豪傑と交わろうとして国内の各武術流派に注目し、日本刀法にも研究整理を進め『単刀図説』を著した。呉殳は本書の序言で「唐に陌刀あり、戦陣で猛を称すもその法伝わらず。倭国単刀をして中華間にその法を得る者も、終に倭人の精に及ばず」と述べている。よって彼は日本刀法を主として「漁陽の老人」の剣法からその「析削粘杵」の要点を汲み取り、双手刀法十八勢を編み出した。

 明代より劉雲峰のような民間の武芸家たちが日本刀法の習得にカを入れ、加えて程宗猷、呉殳らのまとめた著作により、中国が日本へ伝えた双手剣刀法は、日本の風格を帯び再び中国へ戻ってきた。「少林寺」を名のる拳術が日本で根付いたと同様、日本双手刀法は中国でも普及の土壌を得、かつ中国武芸家たちにより心をこめて育成された。

 明代我国に伝わった日本刀法は以来ずっと民間武芸の奥深く保存され、清末以来、華北では謝徳恒、黄林彪、劉玉春、馬鳳図、馬英国、郭常生、トウ忠義らが、相次ぎ日本刀法の整理と伝習にカを尽した。このため日本刀法の独特な風格と英姿は百花咲き誇る中国現代武術の中でひときわ芳香を放ち、生々と中日両国の遥かな文化交流の流れを証明している。双手剣法は中日両国間を往来して、相互に融合し、中日両国の多くの武芸家の心血を凝縮し、何百年もの両国武家の成果を結集している。  現在、我国の民間武術界で流布されている双手刀法は「苗刀」と呼ばれる。故武術家の馬鳳図氏によると、「苗刀」という名に変ったのは比較的おそく、明代にすでに「苗刀」という名称はあったものの、それは刀の名で、その形は不詳だが、字面から判断すると当時西南少数民族の刀で、日本刀とは無関係らしい。後世の武芸家たちは双手刀と一般の中国単手刀を混同せぬよう「長刀」とか程、呉両氏の用いた「単刀」という語を沿用せず、「苗刀」と名づけた。現在伝わる苗刀は大体、程、呉両家の刀譜より出ており二つの套路に大別できる。第一路は基本刀勢、第二路が攻守要法である。民国初年、軍閥曹?が保定に「苗刀営」を設け威名を轟かせ、後、南京の「中央団術館」でも教材に用いた。このように我国民間では套路のできる人物は少くない。しかし我国の武術が外見の華やかさを競う風潮が強いため、練習者はどうしても套路表演という形式に陥りやすく。真にその真髄を握もうとする者は数えるばかりだ。それゆえ苗刀も発掘整理を待つ武術である。

前述のように歴史上、中日間の刀剣武芸の交流はある時は戦争下で行なわれ、また一方では古代日本の一部少数の不法浪人により行なわれたが、これは武術という特殊な文化の性質によるところが多い。しかし数千年の長きにわたる友好交流の滔々たる流れの中にあって、不幸な過去はいくつかの渦にすぎない。「艱難は友情を育てる」という如く、歴史の曲折した過去を振り返ると、中日両国の武術家たちには友情の方がより貴重で祈求したところであり、両淘の世世代代仲よく付き合ってゆこうという新しい潮流下にあっては、全武術領域においての交流活動が過去のどの時代よりも頻繁になるであろうことを確信する。(終り)