苗刀・武術教材等

【補正 八極拳と六合大槍 関連資料】
(補正 歴代日中剣道連盟所属開門八極拳指導所)
※六合大槍操法を、警察官の逮捕術・学校等に設置の【さすまた】(江戸時代に罪人を捕えるのに用いた三道具の一つ)の応用にお勧めします。

中国政府 国家敦煌研究院常書鴻名誉院長認定 国家人民体育出版社認定 参照文献
・1986年発行 『日本開門八極拳』
・1989年発行 『中華武術文庫六合大槍』
・1990年発行 『中国武術大辞典』
・2003年発行 『武学探真』(中国武術大辞典馬明達副編集長著作)
【哀悼 馬氏四傑三男馬令達先生(中国武術大辞典撰写人)――心より哀悼の意を表します。―― 野上小達】

NEW(20230226) ページ下に『中華武術文庫六合大槍』資料追加

八極拳と六合大槍[馬明達老師著作](※日本語訳あり)

八極拳と六合大槍[馬明達老師著作
八極拳と六合大槍[馬明達老師著作
八極拳と六合大槍[馬明達老師著作

八極拳と六合大槍
馬明達
(※ 相関例:開門八極拳盤手と六合大槍、攔槍等)

 この短い文章に、八極拳と六合大槍の関係を申し上げたいと思う。亡父馬鳳図に、1953年11月にまとめられた「八極拳三字経」という著作があることを以前の文章において述べた。「三字経」の冒頭には、以下のような記述がある。
「八極拳、呉鐘伝。:槍の王と称され、慶雲県に伝わる。:呉鐘は床科村にて教範を立て、師の張公に対する礼は超凡なものであった。」

 ここで述べられている「八極拳」とは、一つの総合的な概念であり、一つの武術流派と一種の武術門戸の代名詞を表しているため、単なる「拳術」の名称と理解してはならない。すなわち、太極拳において「太極」或は「太極拳」という時には、拳術の他に太極槍や太極剣等も含む太極の系列全体を指す場合が多いが、その事と同様に、八極拳を単に徒手運動と理解してはならないのである。八極拳には一つの鮮明な特徴があり、それは六合大槍と非常に密接なものである。八極と六合はあたかも真珠が連なり美玉を合わせたかのごとく、相補相承の関係にあり、どちらか片方を欠いては成立し得ない。そのため、先に挙げた亡父の「三字経」においては、 「六合大槍は八極拳の里としての位置を占め、呉鐘は槍の王として慶雲県床科村においてその名を立てた」 という事実から筆を起こし、拳と槍が不可分の関係にある事を明確に示したのである。
 六合槍は我が国において明代以来の槍法の正脉であり、明代及びそれ以降の天下の槍法は甚だ多いが、その本源を突き詰めれば、六合の外に出るものはない。端的に言って、六合は槍法の大宗であり、その他の各種槍法は六合の旁門別枝や、一つの偏った技が伝わり広まったものであり、また現代の花槍のごとく、「槍」という名は冠していてもその実は表演技芸に過ぎないものもある。六合槍の歴史淵源は基本的に清楚であるため、(明・清の間の伝承関係は複雑であるものの)大体においてその足跡を尋ねることが可能であり、この点はもちろん非常に深い問題であるが、ここでは敢えてあまり筆墨を費やさない事とする。本文で思索の対象としたいのは、八極拳と六合大槍とが如何にして緊密な結合をするに到り、両者の相補相承関係はどのように形成されたのか?ということである。
 八極拳の第一位伝人 滄州地区の人 呉鐘 は大槍で名を馳せ、「神槍呉鐘」の号をもって称された。呉氏以下、後の大槍の名家は槍法を標榜する際、「神槍」の号をもって当時の名を立てている。これは羅瞳の系統のみで行われている事であり、「神槍」張克明、「神槍」李大忠、「神槍」張景星、威名が四方に轟く「神槍」李書文の名が有る。同様に、父 馬鳳図、師叔父 韓化臣、叔父 馬英図も、その槍法によって当時名高かった。この点については、「馬鳳図と六合大槍」の一文において既に述べてあるため、復述はしない。ただ、一定の程度で述べると、八極拳の大名は大槍扎の出来を基準として判断されるのであり、頂肘頂の出来で判断されるのではない。昔日、八極拳家が人と芸を比べる時は、通常は大槍を用いて行い、拳で闘うことはせず、八極拳家が拳牙による相闘は末技とみなしていた事が分かる。よって、八極者を検討する場合には、必ず六合大槍によって論ずるのであり、槍を検討しない者や、或はあたかも正伝者であるかのように槍を検討しても、徒に「崩撼突撃」などと言い続けるだけの者は、実際上は本質を知らない末の浅学者に過ぎない。
 このように八極は大槍を非常に重視しているが、それでは、六合大槍と八極はいつ結合したのであろうか? この問題は亡父の在世中によく談じ、多くの推論を行ったが、残念ながら徹底的な解決には到らず、その一つの原因は信頼できる資料を発見できなかったことにあった。幼い時に故里で聞いた情報によると、六合の正法は岳山張氏が呉鐘に教え伝えたものであり、呉鐘はもともと槍法に熟達していたものの、六合の要法には精通しておらず、特に「起退合戦之法」を理解していなかった。そのため、岳山張氏より六合の正伝を伝えられて後、再び刻苦研鑽し、実践を行い、北京・天津において名手と呼ばれた人を打ち負かしたために、ついに「神槍」と称されるようになったのである。それが、亡父の「三字経」に明確に示されてある、「岳山張氏が呉鐘に八極を伝え、呉鐘は超凡な礼をもって張公に対し、慶雲県床科村で八極と六合の「教範」を立てた」という事である。
 実際上、少し考えれば分かるように、「六合」と「八極」という甚だ古い源から来る二つの言葉が現在の一つの拳派に同時に現れているということから、その二つに明らかな関係がある、という見方に容易に行き着く。すなわち、拳派の名称として「八極」と名付けた人は、まず「六合」との対応を考慮し(武術の術語として、「八極」よりも「六合」のほうが早く出現していたため)、その影響は相当に深く広かったのである。このように一種の理念の方式をもって、六合と八極の相補相承、すなわち真珠が連なり美玉を一つに合わせたごとくの相補相承関係を確定した事により、本来は技術的用語であった言葉は高名となり、理性的かつ文化的な次元に上ることとなった。八極拳の命名はこのようであったが、それ以降の太極、形意、通備、八卦も概ね同様であった。これは中国武術発展過程中、非常に重要な現象である。ここで注意して欲しいのは、槍法の「六合」が本来は六つの合戦の方法、すなわち六つの程式性を有する技術訓練組合を指しているのであって、それが「八極」との相対をなし、両者の相関の意について語ることも有り、実用を説くことに極めて優れたものであるということである。「手、肘、肩、足、膝、股」のような配合を六合とする言い方が武術界に多く見られるが、それらは主として後代に派生した言葉で、明代槍法の「六合」本来の意味とは甚だ異なっている。
 八極と六合は真珠が連なり美玉を一つに合わせるようであると言われているのは、単に理論上の理解ではなく技術上も確かな事で、両者は確実に一種の相補相承であり、互いに益しあう関係にある。簡単に述べると、八極拳を練る時、八極拳法の勁道を追求することは(八極拳の「「木床」コウ勁」勁法の訓練を受けること等)大槍を持つのに最も益があり、その勁道は大槍の勁道に近く、槍法の実際運用と臨戦変化を真に掌握し、理解する事につながる。正にこの意味で、亡父は在世中、八極と六合の関係を形容するにあたり「珠連璧合(真珠を連ね美玉を一つに合わせる)」という四文字を用いる事を最も好んだのである。亡父はいつも、孔子が孔鯉に与えた「詩を学ばなければ、語る事無し」の教訓を借用して、八極を練る事の重要性を強調し、八極を練らなければ槍を談ずる事はできず、八極を練っても大槍を練らない者は「馬の鞍を馬として乗る」事と同じであると話していた。亡父はまた、清末、民国の初年の事を常々話し、京津の二ケ所で三度李書文に会い、李先生がいつも槍だけを論じて拳を語らず、(李先生は拳も練り、八大招と金剛八勢(李瑞東先生から伝えられた)も非常に上手であったが)、普段八極拳を人に見せることはせず、大槍しか行わなかった事を述べていた。ゆえにある意味で、八極拳を練ることは大槍を練る基礎を定めるためにあり、大槍入門の前期準備として最高のものなのである。
 御存じのように、古典面目を多く保存している伝統拳派の一つとして、八極拳の最大の特徴はその素朴さにある。その素朴さは主に以下の二つの点に表現されている。一:拳套の全体構成は簡明であり、主要な套子は三つのみ、すなわち小架、八極拳、対接であり、三者の順序はそれぞれ専門の特徴を持ち、互いの関係ははっきりとしている。また六肘頭があり、これは一つの基本操作法であり、衝突訓練によって撃打に対する抵抗力が高められる。内場の六開や八招も簡潔明快であり、余分なところがない。二:勁道も同じく簡潔明快、静動分明で、虚実もはっきりしており、歪んだ余計なものが無いため、体の良い若い男性が修業に耐えるならば身につけることが可能であり、決して虚妄な神秘主義によって迷わせてはならない。晩近、中国武術総体がそのような浅薄で派手な事を発展目標としてしまうという悪運に会い、風気は低下し、ある人は自分の利益のために、八極拳のような古典武術珍品にも手をつけ、油を添えて調味料を加え、枝を加えて、理論上で別の拳種から移してきた事を除いては本来の八極の深みの部分については一切言う事ができず、ただ技術上水を注ぎ、泡を立て、多くの事を勝手に作り上げて「祖伝の秘方」と称している。素朴こそが、天地間の最高の美であることを知らないのであろうか! まして八極のような伝統武術精品においては、その本来の構成が数百年の間に徐々に形成されており、その間に多くの高明な人物に解釈演繹され たことや、あるいは様々な微少な変化があっても、大家はただ一条の原則を把握し、その原則については乱す事も改める事も許されず、蛇足を加えるような愚かな事を決して行わないのである。そのような愚かな事をする者は、この珍奇な民族文化遺産に対して、また八極の祖先達に対する冒涜を非難されるべきであり、歴史書にその事実を記載し、裁かれるべきである。
 八極は、「素朴」という二文字の前提の下で、六合大槍との密接な結合を形成した。
 少し武術知識のある人ならば知っているように、大槍には一定の長度要求がある。槍杆が細すぎれば必然的に柔らかくなり、力強さに欠けてしまうため、一定の太さも必要となる。長度と太さの要求により、ある一定の重量になる。ここでは伝統大槍の制作標準を紹介しないが、興味のある読者は、戚継光の「紀效新書」や程宗猷の「長槍法選」等を参照していただければ分かると思う。八極拳家の伝統で言うなら、過去に功夫用の大杆子には通常四、五斤(一斤=500グラム、訳者)以上のものが使われた。ある名家、例えば張景星先生、李書文先生は、日常使用していたものは八斤であり、亡父が七十才ぐらいの時に使っていた杆子はおよそ五、六斤のものであった。このような長く重い杆子を持つことは、一定の腕力が無ければ無理であり、まして、挫(引き止める)、拿(つかむ)、圏(囲む)、扎(刺す)の動作を要し、上下に動く事や、出たり入ったりという動作が要求されるのであるから、なおさらである。もちろん、演練試合をする時の杆子はもっと軽いが、それは軽くなければ巧みがなく、巧みがないものは古人が言う所の「下手な頑張り」になるからである。しかし、練功用のものには一定の重量を必要とするということは、皆が共通して知る道理である。
 八極は力量型の拳法であり、短打類型の拳法である。長期に八極を練り、各種の補助訓練手段を配合することは、人の膂力を増進するのに最も有利である。八極は特に爆発力・短くて飽満な突撃力を重視し、激しさでもって硬さを攻撃することを重視しており、これらは全て槍を練る場合にもよく、それはただ単に大槍を練る時の力量上で有利なのではなく、槍の勁道を掌握することや、実戦用槍においても有利なのである。大槍は「勢長節短」を重視し、弩のように低い所から遠くまで射撃するように、虎のように蓄力して爆発を待つようにする。多くを語らずとも、読者達がこの形容の中からその意味を自ら悟ることと思う。

馬鳳図
 八極の一つの鮮明な特点は、打{ }子を好むことであり、「震脚」とも呼ばれているが、八極が最も容易に人に影響を与えたことである。若い人がひどく打ち、その勁の用い方が拙いために、八極を修業すると、脳が振動して壊れると言われた。例えば、1934年徐震(哲東)先生が{   }の「八極拳」のために書いた序には、「常に八極を行うものは、震歩の時に力を入れ過ぎて、脳を傷つけやすいため、震歩の時に力を入れることは止めたほうがよい。{ }君もそうであると思うので、ここにその意を記す。」と書いている。50年代、徐先生が蘭州の西北民族学院で任教した時、彼は我が家の常客であった。民族学院は我が家とあまり離れていないため、徐先生の好んだ夕食の後の散歩の際に、我々兄弟達と師兄弟達の激しい練拳を見ていた。彼はいつも興奮して多くを喋ったが、南方のなまりがひどいので分かり難かった。彼は亡父にも上記の問題を話し出したが、亡父は笑って答えず、ごく簡単な説明をしたのみであった。その後に亡父は、徐先生が文人ながら武術が好きであり、太極はその長所であるけれど、痩身で大槍を持てないために{ }子の役割を理解できず、話してあげても何にもならない、と教えてくれた。徐先生は学問の面ではとても優れており、特に考証の上手であったが、確かにその体は弱すぎた感が否めない。実はかなりの程度において、{ }子は大槍を行う上でなくてはならない一種の訓練であり、また六合の精要槍点でもある(例えば、白牛転角、白猿施刀などの歩態である)。簡単に言えば、ある状況下で、{ }子は突然に力の方向を変えることに役立ち、突然に相手と自分との間の態勢を変えると、相手に心理的な衝撃を与えることになるのである。大槍に対しては、このことは致命的な法門であり、一定に、常に練り、長く練ることが要求され、臨機応変にならしめ、声に応じて出るようにさせる。古人の言葉に、「千金で一声の響くを買い難く、一声が響いたら閻魔が見える!」と言われており、耳障りかもしれないが、この道理は間違いなく正確なものである。よって、修業者が八極の正しい解釈を得ることができずに、演ずる時に力強さを表現するため、拙い勁を用いて打{ }子(震脚)を行うことは明らかな錯誤である。修業者は、目を醒まし、修正する事が必要である。
 更に重要なのは、八極が「ゆっくりと構えて(架子をとって)素早く拳を出す」ということを重視している事であり、架子は、一切の架式を指しており、具体的に言えば八極小架を指している。小架の動作は多くないが、その構成は非常に謹厳である。練る時は必ず落ち着いて、急がずに、一手一勢がはっきりと交わるのを待ち、力量を込め、ゆっくりと「引く」、力量を足に伝え、姿は正しく気も調整され、頭から足まで気完力勁、それはまるで空が晴れ、清浄な部屋において筆墨を取り、静かに座って柳公権の「神策軍碑」を臨模するようである。槍法に対しても、これは一種の極めて重要な訓練であり、心身にも益のある訓練である。槍法訓練の要素はたいへん多いが、最も重要なのは「静」という一字である。一人で行う時も静が必要であり、二人の合戦の時も静を要し、実際の場においては更に静が要求され、静が無ければ大きな損を招く。往年の槍の修業者は、常に槍を出した者が敗れており、手の力など原因は多くあったけれども、第一の原因は、落ち着かず、勝ちを求める心が先走る事にあった。
 八極拳と六合大槍の技術的な結合は多方面にわたるが、この短文の限られた枚数で全てを言い尽くす事は不可能であるため、ここまでで止めることとする。
 私が考えるに、一門の伝統武術を完全に継承するために最も重要な事は、まずその基本理論を明確に理解し、その総体の構成を理解してから、その後に再び順序を追って練り・学び、高めていく事である。その間、不断に自身の修養と功力を高め続けることが最重要であり、このようにして初めて、才能は竹の子の皮を剥くがごとくに、一層深くその中に入り、終にその精粋を得ることができるのである。よって、ただおおよその套を練って、またこのような套が多ければ多いほど理解しているのだと考えて、勝手に組み合わせ、「その多くを得た」、そして「正伝」であると自ら誇る者……これは恐らく誤解というところまで行っており、少なくとも、一種のあまりに浮表的な認識だけでもって武術を簡単にとらえ過ぎている。伝統武術は全ての伝統文化類と多くの共通点を持ち、その一つは、「套数」が一定の歴史文化背景の下で形成されているために、定まった程式性を持ち、この程式自身に文化が遺存しており、ある文化の蓄積と文化情緒の体現となっていることである。従って、継承者は便宜的に勝手にこれを変更してはならないし、勝手に内容を付け加えることも許されないのである。そのよう事を為すことを、古人は「竃乱」、すなわち「変異を起こし、敗れ衰えさせて、名のみが残って実は滅ぶ」と呼んだのである。当代武術の悲劇は、その管理者が堂々と「自編」を提唱していることにあり、「規則」をもって編造した浅い理による形式を確定し、「良く」作れば点数が加えられている状況である。そのために、武術が任意に組み合わせられるようになり、何人でも泥をつかんで捏造できるようになり、勝手な形状を作り上げられ、古色蒼然とした名号をつけられ、怪しい神秘的色彩に染められ、それが堂々たる「伝統武術」であると言われるようになってしまった。現在、伝統武術が盛んに起る勢いがあるが、総体として上記の問題は少なく無く、未だに危機の中から抜け出す事は出来ていない。真正な伝統武術を保護し受け継ぎたいのであれば、まず先に述べた問題を解決しなければならず、制約の方法が要求される。少なくとも主管部門がその鑑別能力を高め、謹慎し、善いものを選別しなくてはならない。さもなければ、伝統武術の前景には不安がある。八極拳は、その一つの例である。
(*下線は訳者)

付記
八極拳に関しては、馬鳳図公「八極拳三字経」が裏付けである。
 なお、開門八極拳の戦術は、六合大槍との相関から導かれる必然的な帰結として、その原理・原則(下記の「注」を御参考下さい)に「開法・破法」を有することとなる。よって、「開法・破法」の原理および運用を知らない者は、開門八極拳を正しく理解することは不可能であり、不徹底かつ再現性の無い(従って、事に際して実用上信頼するに足りない)戦術に終止し、いつまでも浅薄な理論・技術体系に止まる結果となる。このことは、避けることのできない現実であり、開門八極拳を学ばれる方は指導者に正確に確認されるべきであります。
(注)
「河北塩山県李雲標伝大通備拳の二大原則」
一, 威力の養成の証明動作とは、大通臂による霊活であり、突発的に初動の速いスピードの連続する戦術を含む動作である。
二, 間合い(圏内・圏外)は十二の招法(先の先での空間の処理・攻撃法である)、すなわち破法、開法を駆使するものである。

「馬賢達老師教伝」
”実戦の秘訣とは歩法をともなう霊活招法の習得”と教伝。

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