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張之江がなぜ武術を提唱したか(P21~22)

中央国術館史

張之江がなぜ武術を提唱したか(日本語訳)

 張之江は河北省「武術の故郷」である滄州地区に生まれ武術の薫陶を受けて幼い時から武術を熱愛している。清末に、義和団の失敗によって洋槍洋砲が中国に輸入されてから武術の実用価値が大いに下げられ冷遇されていた。武術の英傑が腕を振るう場所がなくなっていた。民(国)初年の支配者は武術の練習者が造反するのを防止するために一時的に武術を練習することを禁止した。そのため武術がだんだん淘汰されていった。ある武術家は郷鎮に流浪し生活のために大道芸人になるなどその境遇は凄まじいものがあった。
 当時、河北の武術の郷の滄州地区から出てきた辛亥革命者の張之江は強大な権力を恐れることなく武術を復興しようとした。彼が武術を提唱した動機は三つあった。

 第一:支配者が提唱・支持しないため武術を練習する人がだんだん減少した。このため、人民の体質がだんだんと衰弱し、帝国主義者から我が民族は「東亜病夫」と称されることが一世紀続いた。これは我が民族のこの上もない恥辱である。実際は我々が世界で最も先進の文明故国でありその子々孫々は文明の逞しい人々である。これは帝国主義者の我々に対する中傷であり、我々はぜひこの国辱を雪ぎたい。

 第二:張之江にはその軍人生活で訓練した武術大刀隊が存在した。毎回戦役中、その武術大刀隊で勝利を収めた。例えば、宋哲元が29軍を連れて喜峰口で日本軍と戦ったとき完全に大刀で日本鬼子を人頭散らばるかの如く殺傷した。日本板垣師団のほぼ半分を殺傷した。それから日本の増援部隊が送られて来た。全ての日本兵は首に鉄防護を被り頭を切られるのを防いでいた。しかし、頭は保護されたが手足は戦地に散乱していた。又、李景林が張作霖の指示で軍隊を率いて西北軍を来襲した。張之江は敢死隊を結成して迎撃した。馬英図をリーダーとして李景林を侵攻した。我が軍は「蟹陣」を陣立てした。即ち、蟹形の塹壕を掘って二つの大きい足に主力大刀隊を待ち伏せさせ、前顔の少人数歩兵で敵を陣におびき寄せ敵軍の大部分が陣に入ってから両足からの主な兵力が襲い、敵の全員を蟹の主体に囲んだ。この時、大刀がその威力を発揮して陣に入った敵全軍が壊滅され殺傷された。我が軍は揚村を通り過ぎて天津へ直行した。李景林は狼狽し逃亡したため、我が軍が天津を占領した。又、直奉大戦―北京大戦時、張之江が軍隊を統率して廊坊へ呉佩孚を追跡した。呉は軍隊の支えがなく一人で塘沽から乗船し南方に逃亡した。又、張作霖、呉佩孚等が討赤連軍を結成し西北軍を取り囲んだ。張之江は20師で討赤連軍の50師に抵抗し、南口で敵と会ってから五ヶ月ほど経ても陣地を堅く守りすっと不敗の地に立っていた。又、台児庄戦役中にも武術大刀隊によって台児庄大勝利を収めた。武術大刀隊は強烈な砲火には対抗できないが刀や刀剣などの短い武器で接近しての白兵戦などの場合はいくら強い砲火でも役立たないため武術大刀隊は敵の殺傷に巨大な役割と威力を発揮できた。張之江は武術大刀隊の甘みを味わったのである。
 張之江は洋槍洋砲があったら、中華武術が腕を振るう場所がなくなるとは思わない。武術は戦時下では敵を殺傷できるが、平時下では体を鍛え、民族を強くする健康に良いスポーツでもある。

 第三:南口で討赤連軍と抗戦した際、討赤連軍は59万人約50師の兵力を持ち張之江が統率した国民軍はわずか22万人約20師団であり双方の兵力差は激しかったが、張之江の統率した国民軍は討赤連軍と四ヶ月間あまり戦いずっと不敗の地を保っていた。主な要因は武術大刀隊に頼って陣地を堅く守り塹壕戦・白兵戦を用いたためである。敵は陣地を越えられなくて勝利を得ることはできなかった。後は、国民軍の戦線が二千里ぐらいまで延長したため命令の伝達と給養物資の提供が困難になり作戦の遂行が難しくなった。張之江は実力を温存するために総撤退の命令を下した。国民軍が衆寡敵せず脅威にやっと失敗してしまった。但し、軍閥が北伐軍の邪魔を牽制して北伐軍の北上の道を開いた。張之江が南口作戦を指揮した際、昼夜過労のため撤退行軍の時に半身不随を患った。療養のために軍権を馮玉祥に任せた。張之江が療養中、数多くの武術家から武術の練習によって健康回復ができると勧められてその建議を受け取り武術を毎日かかさず練習した。半年間練習を続けてから症状がだんだんと良くなりそれから完全に回復した。彼は自分自身の体験から武術が敵を殺傷し自己保護することだけではなく、病気を治し、人を救え、身体を丈夫にならせると考えていた。それから、彼は全ての軍事政治職務から外れて中華武術を改めて提唱することを決心した。同時に張之江が中央国術間を計画して建設する際、蒋介石は孔祥熙を張之江の家に派遣して張之江を国民政府軍政部の部長に丁重に招聘した。当時、張之江は丁寧に断った。張は、「武術を提唱することが部長になることより愛国心をさらに表せる。武術には救国衛民の大きな役割があるからだ。」と言った。

中央国術館を創建する
 張之江は武術が祖国の国粋、国宝であると考えていた。彼は1927年に中央の武術の重要性を高めるために「武術」を「国術」に変えることを申請した。すぐに中央の許可を得た。それから「武術」は「国術」と改称された。武術の普及、「東亜病夫」の名称をはずすために彼は「国術研究館」を創立するつもりだった。国術研究館の組織は武術を研究する機関だけではなく、その中には武術訓練大隊、武術教練も育成する。学術教育機関に所属するはずだったが国民党教育部に登録を申請した。しかし、教育部は武術は既に淘汰されており提唱する必要がないと考えて絶対に許可を降ろさなかった。何回も申請したが、最後は民衆団体に所属させて教育機関に所属させなかった。経費は自分たちで調達させ、わざと難癖を付けた。張之江は国術館を創建したくてしょうがなかったから色々な場所へ奔走し呼びかけていた。最後は革命の先烈李烈 先生を見つけた。当時李烈コウ先生が国民政府常務委員を担当して国民政府の副主席に当たっていた。彼は、張之江を辛亥革命雲南一揆の戦友であり、雲南一揆の中心人物でもあり、お互い気心知れていた。
張之江が教育部から難癖をつけられたことを彼に言ってから李烈コウはすぐ決心した。彼は教育部が許可しないなら直接中央から管轄しよう。国民政府の直轄機関に所属して、経費は財政部国庫から支払ってもらい、毎月四千元で決まっているので過不足分は自分たちで調達できると言った。そこで「国術研究館」は「中央国術館」に改称された。
中央国術館は1928年3月15日に、<国民政府公報>第41期刊第174号公文で許可登録された。
当時は政府要人の 永建、蔡元培、孔祥熙、何応欽、干右任、張之江などによって建立された。そして、宣言も発表して中央国術館が理事会を設立して馮玉祥が理事長を担当した。


■西北軍に迎えられる(P3~4)
 *「開門八極拳」著者:野上小達、松田隆智 出版社:福昌堂 より引用
■国魂 英杰の馬英図(P5~11)
 *「開門八極拳」著者:野上小達、松田隆智 出版社:福昌堂 より引用
■中央国術館史(P12~20)

■張之江がなぜ武術を提唱したか(P21~22)